革新的な美粒の高圧乳化分散、グラフェン、カーボンナノチューブ、セルロースナノファイバー、挙動は同じです。

若き研究開発者に捧げる言葉

若き研究開発者に捧げる言葉

自己営業能力を磨くには、芸術的な感性を磨くこと。

 芸術の中には、3つの柱がある。ひとつは、言葉の中に美を求めるもの、小説、詩、和歌、俳句である。もうひとつは、静止したものの中に、美をもとめるもの、それが、絵画的なものである。絵、彫刻、ある意味、建築物もそうかもしれない。最後が、動的なものの中に、美を求めるものである。それが、音楽的なものである。音楽、映像、映画、芝居である。これらは、この世を点としてみるのか流れとして見るのかで、表現方法がことなる。

 芸術の評価基準の一つには、微分的にとらえる視点がある。それは、縦の感覚、一瞬の変化を感じるものである。ある意味、縦波の感覚である。それとは別に、積分的にとらえるものがある。横の感覚である。連続での変化を見る視点である。ある意味、横波の感覚である。人生とは、その横と縦の感覚が相互にからまって織りなす影絵のようなものである。一瞬の絵画的なものが連続的に音楽のように流れ変化するようなものである。

 世の中を変える人とは、科学者、発明者、宗教家、政治家、芸術家等、歴史に名前を刻む人であろう。しかし、その人たちは、100年単位でしか、この世にはでてこない。ある意味、天才である。普通は、市井の中で、生まれ、市井の中へ消える存在である。その一人ひとりが、それぞれ、相互作用し、ひとつの世の中の流れをつくることになる。

 この世は何時の世でも世知辛い。原始共産性を求めない限り、人は、自分の愛するものを守りながら、生きていかなければいけない。自由に、自分の好きな事だけで生きられればいいが、そういうわけにはいかない。経済的な側面がある。昔から、生きるためには、競争が存在する。自由があれば、そこに競争がある。いつの世でも、勝つものは、多くの富をもち、負けるものは、貧困をうけもつ。今は、才覚しだいで、貧困から脱出できるし、人の行動次第で、富豪も貧民に転落することもある。現代において、その才覚はどこにあらわれるのかといえば、サラリーマン人生の多くの人は、営業という行為の中にそれが現れる。自己主張、自己表現の方法論にもよるが、より多くの富を得ようとすれば、人との相互作用の場で優位に自分をもっていかなければいけない。それが、ある意味、営業なのである。

 いくらいい技術をもっていても、それを、知らしめなければ誰もわからない。いくらいい才能をもっていても、それを知らしめなければ、だれも評価できない。いくら、才能があっても、それを、発表しなければ、その価値がわからない。他人から、それを探してみつけろといっても、よほど、ぴかぴかと輝く者以外は、それがわからない。つまり、この世の5%の人は、得意なものをもっているからそれで生きていけるとして、のこりの95%の人は、市場経済、自由経済の中で、競争に打ち勝つには、自己営業能力こそが、キーになるということである。もちろん、どこの場で競争を仕掛けるかは、それぞれ異なるが、人に、自分の真価、もっているものを、知らしめる行為、それがすべて営業という行為になるだろう。商社の新人教育の中で、最初に、いうのは、物を売る前に、自分を売り込めというのが、鉄則になっている。

 人をみる。この人に、器量があるかどうかは、感じや匂いでわかるものである。その感じや匂いとは、芸術性と科学性の二面から出てくる。それは、科学的な思考ができるか、芸術的な感性をもっているか、なのである。科学的な思考ができても、芸術的な感性がなければ、底が浅い人間と思われる。芸術的な感性があっても、科学的な思考ができなければ、いい加減な人間と思われる。どちらの人間が多いかといえば、前者な方なのである。科学的な思考ができても、芸術的な感性を持ち得なければ、人との相互作用の場で、負けてしまう。一時はいいかもしれないが、長続きがしない。どこかで、金の切れ目が縁の切れ目になってしまうことが多いのである。営業は、人間力、どれだけ、芸術的なセンスをもって生きてきたかなのである。

 仕事がら、若い(40歳以下のひとであるが)研究者とよくあう。だいたい、あって、しばらくすると、直観的に、その人の素性がわかる。私が出会うのは、大抵は、その会社の若きエース、ホープの人である。その地位やその仕事を任せられるのは、それなりにその会社で勝ち抜いた結果なのである。もちろん、それなりの会社であるから、そこへ就職するのも、それなりのものがないと、入れないし、開発、研究の地位にも立てない。会社の将来がかかっているからである。大学や公的機関ではなく、民間の会社の研究員、技術者であるから、それなりのものなのである。

 本人たちは、大体、理系的な考えで、大学をでて、中には、大学院をでて、博士をもっている人もいる。芸術とは無縁な生き方だと、本人は思っているかもしれない。しかし、大抵、それなりの人には、芸術的な感性が匂うのである。本人は、専門分野を追求し、その技術的なバックボーンを掘り下げていることだろう、芸術など、考えていないかもしれない、しかし、開発を任されるのは、創造性がなければ、なりたたない。なにかしら、独創的な感覚がなければ、そこへ到着しない。企業もバカではない。狭き門を通すには、ただ、頭がいいだけではアウトなのである。面接官は、どこをみているのかといえば、理系なら、その人がもっている芸術的な感性なのである。それがあるかどうかをみているのである。優秀な面接官は、それが、一瞬で見抜ける。見抜けぬ面接官なら、その人が次のリストラ候補になるはずである。それだけ、企業はいい人材を求めている。

 では、どうしたら、芸術的な感性を磨くことができるのだろうか、よく、いいものを鑑賞しなさいという、いい映画を見なさい、いい小説を読みなさい、いい音楽を聴きなさい、という、しかし、それは、映画監督や小説家や音楽家になる人のためで、普通の人には、それが絶対ではない。いい映画を見たければ見たらいい、いい小説を読みたければ読んだらいい、いい音楽を聴きたければ聴いたらいい。もちろん、それができれば、そうしたらいい。しかし、それはあくまで、受動的であり、決して、能動的に、自分の芸術的な感性を広げるものにはならない。では、どうするのか、それは簡単である。自分の五感で、アナログ的に、作り上げるのである。具体的には、絵をかきなさい、楽器を奏でなさい、詩や和歌や俳句を作りなさいということなのである。

 写真撮影もいい、しかし、一番いいのは、紙に、その風景を、転写することである。スケッチである。下手でもいい、その風景を切り取るのである。風景と紙とを交互にみる。そこに、何かしらのものを感受する。自分の中の芸術的な感性を育てていくのである。また、楽器を奏でることである。かならず、音感が養われる。リズム感がでてくる。そして、スケッチの中に、詩を書くのである。俳句でもいい、何かしらの言葉を書くのである。ギターができれば、それにメロデーをつけて、歌うのもいい。この文章の最初にのべた、芸術の三つの柱、言葉の中の美、絵画的な美、音楽的な美を、模索していくのである。

 これは芸術家になるための方法論ではない。あくまで、サラリーマン人生の中で、営業職であろうと、研究職であろうと、どんな職種でも、必要になるのが、芸術的な感性であり、それを育てる方法論なのである。営業を上げるにも、商品開発でいいものを作るにしても、それを支配するのは、その芸術的な感性があるかないかなのである。私は、商品開発、独創的な商品を作り上げるには、専門の知識も必要だが、それよりも、芸術的な感性の方が上だと思っている。専門知識4、芸術的な感性6ぐらいだと思っている。本当に、とんでもないものを作るなら、専門知識2、芸術的な感性8だと思っている。

(2017年9月2日 秋山なおの美粒ブログにUP)

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