革新的な美粒の高圧乳化分散、グラフェン、カーボンナノチューブ、セルロースナノファイバー、挙動は同じです。

美しさを創造できない人は、人生の達人にはなれない。

美しさを創造できない人は、人生の達人にはなれない。

 色々なものを混ぜる際、普通は、適当に取り扱う。ミキサーにかけて、ぐるぐると回す。それで、うまくいく人とうまくいかない人の差がでてくる。素人とプロとの差は、意外とものを混ぜるやり方で決まることが多い。料理をとってみたらわかる。食材はほぼ同じ、つかうツールもほぼ同じ、なのに、味が全然ちがうということがある。うまいとうまくないとの差がでてくる。お金をとれる料理人と、お金がとれない料理人との差でもある。それは、どこにあるのか、前処理の技術が優れているかどうかである。それこそが、プリパレーションの技術でもある。

 人間の能力にはそれほど差がない。今の時代、原料の差もない、ツールの差もない。100円の器と一万の器には、本質的な差はない。では、どこに差がでるのか、料理なら、味といういうファクターであり、材料なら、その性能である。おなじように、混ぜて、同じような力を加えて、同じように処理しても、結果が異なる。それはなぜか、前処理が違うからである。料理なら、その入れ方、混ぜ方、順番、力の入れ方、かかり方が違うのである。食材は同じ、トータルエネルギー量もおなじ、時間もおなじ、マクロからみたら、同じでなければならない。しかし、結果に差がでる。ある意味、日本人の達人と、それをコピーして同じものを作り上げようとする中国人や韓国人との差でもある。何が違うのか、日本人の達人は、どこがキーポイントか、感覚で熟知しているのである。それが職人の感性である。それを理解せず、同じ食材、おなじレシピ、おなじツールを使えば、同じものができると錯覚する人たちの感性の違いでもある。日本人の達人とおなじレベルまで到着するには、物をコピーするのではなく、その日本人の達人の心、精神をまずまなび、その生き方、その精神論をコピーすることである。それは、何か、どんなものでも、達人のレベルまでくれば、それが、ひとつの芸術、ひとつの哲学、ひとつの道となっているからである。

 将棋にしても、囲碁にしても、麻雀にしても、また、どんな武道にしても、そこには、かならず、礼が入る。相手に対する礼とともに、そのものに対しての礼が入る。そこにあるのは、人のエゴを超えた神の霊、人間の叡智をこえたものが、そこにあるからである。それが、ある意味、道である。柔道にしても、剣道にしても、ある意味、相撲にしても、そこに道があるから、その道を踏み間違えば、奈落に落ちてしまうのである。暴力をふるい、礼を逸すれば、大横綱といえども、再び、土俵の上には立てないことになる。なぜなら、多くの人が、その土俵の上には神聖なものが宿っている、それを汚せばどうなるか、暗黙の共同幻想がそこにあるからである。プロの将棋指しが、若造の将棋指しに、あっけなく、負かされても、将棋盤の上では、プライドを抑え、頭を下げなければならない。将棋盤の駒を散らかして、何かインチキをしたのだと、いってごねたら、将棋指しとしては失格である。永久追放である。盤面を汚したからである。

 分散で一番重要なのは、なにか、それもプリパレーションなのである。それは、心の準備なのである。私がやっている分散方法も、自分にとっては、一つの哲学、一つの芸術、一つの道となっている。一つの分散道ということになっている。ある意味、そこに、神の霊がやどる気持ちで私は接している。自分で組み立てて、物をいれて、動かす瞬間は、ある意味、厳かな気持ちになっている。うまくいってくれという思いである。どのようなものがでてくるか、自分が組み立てたやり方で、うまくいくか、それも、一つの試練である。結果を待つ心境である。ある意味、武道とおなじ、一期一会の真剣勝負の感覚にちかい。量産プロセスを扱う職人は、きっと、いつも同じ心境でやっているはずである。自分のひとつの操作がひとつの結果をみちびく、それが、会社の社運をきめる。だから、いい加減な気持ちでは、運転などできない。それが、生産現場での達人の思いでもある。

 どんなものでも、道とつくものには、ものを開始するための準備が、命になる。将棋指しでも、いい加減な気持ちでは駒をならべない、アスリートも、試合の現場にたつ前の準備が重要なはずである。相撲でも、その仕切り前でどれだけ、精神を統一するかで、勝負がきまっている。心が浮つけば、試合はまける。

 物づくりでの達人のレベルと素人のレベルの差は、そこにある。一流と三流の差もそこにある。プリパレーションをけっしていい加減な気持ちではやらない。けっして、乱してはいけないと思うからである。物の乱れだけでなく、気持ちの乱れ、精神の乱れこそが、ものづくりを失敗する要因でもある。いいものをコピーしようとする、その根底には、我欲があるからである。世のため人のためでなく、己の利益、欲望を満たすことが主眼になる。だから、うまくいかないのである。コピーしても、そのプリパレーション時に、欲望で心が乱れているからである。上面だけ、まねても、応用がきかない。臨機応変に、乱れを制御し、プロセスを可変しなければならない。なぜできるか、我欲をこえた、神の霊と気持ちが同期しているからである。料理の達人なら、火を弱めるかもしれないし、持ち方をかえるかもしれない、なぜなら、それが、変化する状況に対して最適なやり方だと、感じるからでる。なぜ、感じるのか、そこに、我欲がないからである。ひとつの道として、己の心をその道の霊に託しているからである。

 私がやっているのも、ひとつの分散道である。処理物がきたら、何が効くかを、考える。そして、二つのパターンを実践する。どう反応するか、なにが、効いているのか、それによってプロセスを変える。ある意味、最適化である。私がトライしているのは、いろんなものがある。医薬品もあれば化粧品もある分散形態もことなる。いまでいえば、グラフェン、CNT、CNFといった最先端の材料を割らずに剥離分散する技術、折れずに解繊分散する技術、条件次第でプロセスを最適化しなければならない。そこにあるのは、ひとつの分散道である。

 どうしたらいいかは、経験をベースにした感覚できめるしかない。ちょっとした変化、それを感じることが重要なのである。しかし、そんなことなど、普通はわからない。それはどんな分野でも同じである。将棋でも囲碁でも麻雀でも武道でも料理でも、達人のレベルまでいこうと思えば、その微妙な変化を感じる能力を養うことしかない。それが、この世にある美しさ、その美しい秩序の在りようを感じることなのである。それなくして、達人にはなりえない。美しいものをみること、聞くこと、そして、重要なのは、美しい物を自分で作ることなのである。美しさを創造できない人は、永遠に物事の達人にはなれない。それは人生の達人になれないということである。私は、つくづく、この歳になってそう感じるようになった。

(2018年3月6日、秋山なおの美粒ブログにUP)

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