革新的な美粒の高圧乳化分散、グラフェン、カーボンナノチューブ、セルロースナノファイバー、挙動は同じです。

人生の本質

人生の本質

人生の本質、やってみなければわからない。(現時点での私の人生観)

人生は、意外とあっけなく、幕を閉じるものである。青雲の志も、いつしか、世俗の垢に汚れ、己の保身とプライドに固執するようになる。人生が難しいのは、自分が蟻さんのような存在だからである。ほとんどの人は、地上でもくもくと生きている蟻さんの存在に気が付かない。知らぬ間に、靴で踏み殺しているのかもしれない。もし、そんなことまで、いちいち、気を使っていたら、人はまともに生きていけない。蟻さんにとって、人の存在などわからないからである。しかし、現実的に、いつ踏み殺されても、おかしくない状態である。車がくるかもしれない、突然の大雨がふるかもしれない。蟻さんは、いつぽっくり行くかわからない。立場をかえれば、蟻さんが人であってもおかしくない。我々も、蟻さんと同じように、何も知らされず、何もわからず、この世に生をうけて、ぽっくりといく存在なのである。自分の航路など、だれもわからない、未来において何が待ち受けているのか、結果をみなければ、何ともいえない。20才の学生なら、30年後、自分がどうなっているのかだれも分からない。生きていられたらラッキーである。病死しているかもしれない。何かの事件に巻き込まれているのかもしれない。刑務所の中にいるのかもしれないし、逆に超リッチな生活をしているのかもしれない。

人は、自分を神様の視点で見られない以上、蟻さんは蟻さんの視点でしか、自分の存在を認識できない以上、それと同じことが人にも言えるから、人はどうにもならないのである。実際に、誰も神様を見ていない。人の感受体では、神様は捕捉できないのである。蟻さんは、人の存在はわからないが、人は確かに存在する。それと同じように、人の存在を凌駕するものは存在するのである。総称すれば、それが神様、私が死んでもこの世は残る。人類が絶滅しようが、この地球がなくなろうが、この世は残る。誰がこの世をつくったのか、神様という以外、その答えを導き出すことはできない。つまり、この世は、自分がこの世を去るその一瞬でしか、自分にとっての人生の解などわからないのである。

人生の結論は、どういうことかといえば、なにごとも、生きてみなければわからないということなのである。やってみなければ、どんな事がおきるかわからない。新しい事をやる、だれも、結論などわからない。結論がわかってやるのは、再現実験である。こうやれば、こうなるという筋道を確立するだけである。AをやればBがでる。それは、わかっているからそれが言える。しかし、最初AをやればBがでるなどわからない。ほしいものはBである。そのBを得るにはどうしたらいいか、たどり着く方法論は、ある意味無限である。その中の一つをえる。どうしたらいいか、やってみるしかないのである。やらなければ、どんな因果関係にあるのか、わからない。やってみて、どんな事がおきるの、それを見るしかない。たまたま、Bに近いものがでるかもしれない。まったく別なものがでるかもしれない。人生において、物事は、本当に、何もきまっていないし、何もわからないのである。もちろん、それは、未知なることに限る。わからないことだから、ある意味、人生なのである。もし、わかっていたら、人生など何も面白くない。わからないから、人生なのである。

京都アニメでの放火殺人事件、あの状況で、火をつけたらどうなるか、それは未知なることではない。因果関係が明白である。その因果が、あの結果である。犠牲になって亡くなった人は、災難である。他人事のように言いたくないが、亡くなった人はどうにもならない。自然災害や交通事故、病気、色々な要因があるが、毎日、理不尽な死を迎えている人はいる。それは事実である。だれでもが、明日は我が身とならない保証はない、しかし、だれでも、生まれて110年ぐらいたてば、ほぼ全員この世から去る。120年後の世界からみれば、みな同じになる。高速道路であおり運転をして、停車させ、人をなぐったら、どうなるのか、それはやってみなくても、結論はわかっている。加害者が想定している以上の現実が待ち受けているはずである。繰り返す、それは未知なることではない。

人類は色々な事を経験してきた。その歴史は、因果律の解明である。AをしたらBがでる。
なぜ、AをしたらBがでるのか、それが論理的に解明できれば、いい。しかし、複雑系がからむ分散実験や、人間が当事者となる医療の現場はそういう場合だけとは限らない。なぜなら、人間は、人によって違うからである。Aという薬は、ある人にとっては100発100中で治る。しかし、ある人にとっては、50%の場合もあるし、別な人にとってはきかないこともある。

ステロイドという薬がある。私の体内には、微小変化型ネフローゼ症候群という発病因子が内在している。何かの因子が重なれば、尿中からたんぱくが出る症状である。それを止めることはできない。しかし、ステロイドを投与すると、一週間もしないうちに症状がなくなる。何十年と再発はしないが、条件が重なると、明日にでも再発する。しかし、ステロイドを投与すると一週間で症状はきえる。その因果律は明白であるが、なぜ、病気(再発)になるのかは、わからない。わかれば、病気は根絶される。私の場合には、ステロイドという薬があり、それによって、色々な臨床データーが蓄積されている。尿中たんぱくが止まれば、日常生活にもどれる。ただ、ステロイドは、一度投与されると、すぐには止められない。徐々に減らしていくしか方法論はない。精神的につらい薬だが、生きていられる分、それを拒否できる理由はない。しかし、世の中には、まだ治療の糸口も見えない病状があるのも事実である。原因不明の病気である。

誰でもが、その症状Bを止めたいのである。もとにもどればいい、しかし、もどらなくても、最悪、死ななければ、現状の症状で生きていられる。問題は、そのBを止めるのが、何であるかわからないのである。それがXなのかYなのかZなのか、不明なのである。ある意味、無限にあるのである。その無限の中から、ひとつを選び、それをその人に投与して、Bがとまればいい。それは、未知なことなのである。やってみなければわからないのである。つらい作業である。しかし、そうやって、人類は病気と闘ってきたのである。私がこうして生きていられるのは、ステロイドという薬が発見され、それを微小変化型ネフローゼに投与したら、かなり高い確率で症状が治まり、治ったという経験則があったからなのである。そして、たまたま、私の中においても、その事例がうまく適応したから、私は今、こうして生きていられるのである。

世の中の在りようは、すべて、このようなことで成り立っている。人生とは、わからないことの連続なのである。60歳や70歳80歳のいい年をした人でもわからないのである。わかるのは、経験したことであり、未知なることは、だれもが分からないのである。人生、悩むのは不安だからである。それはわからないからである。京都アニメの犯人や常磐道であおり運転をして人をなぐったらどうなるか、だれが考えてもわかることをしたら、破滅がまっている。そうでないのなら、やってみることである。もし、途中でそれが、間違っていると、きづけば、すぐにとめて、別な道を探すことなのである。それが道草であってもしょうがない。その道草が経験となるのである。だから、済んだことで、ぐたぐたと悩んでも結局、何も意味がない。

人の過去は消せない。済んだことはそれを受け入れて生きるしかない。悩んで後悔しても、何も変わらない。とにかく、何かをよくしようとすることしかない。自分にとって何がいい事なのか、それにむかって、いいことが起こるように、実行することしかない。現実的に何かを働きかけていけば、すこしづつ物事は結果的に好転していくことになる。なぜならば、こうすれば、こうなるという因果律が経験値の中で増えていくからである。誰にとっても、人生は一度きりだから、わからないことはわからないことなのである。

Bが自分にとって、人にとってもいいことなら。そのBがでるには、Aをする。なぜ、Aなのか、色々とやってみて、Bが最良になるのは、Aだとわかってくるからである。だれも、そんなことはわからない。Bを導き出す条件がAだと、いろいろと苦労してやったからわかるのである。人生もまた同じである。その一つ一つの生きた経験値の積み重ねが、人生なのである。だから、何も恥ずかしがることなどないし、悩む必要もないし、卑下する必要もない。堂々と生きていけばいいだけである。そうして、時がきたら、じたばたしないでこの世をさればいい。最後に、臨終時に、自分が生きたことで、この世がすこし好転したと思えばいい。なぜ、自分がこの世に生きたのか、誰もそんなことはわからない。しかし、結果として生きたということは消せない事実なのである。それだけで十分ははずである。後は後世の人にゆだねればいい。だから、与えられた命、それが尽きるまで、がんばればいい。ぐだぐだと、悩むよりは、今日を精一杯生きた方がいいのである。自分が死んだ後、もし、この地球が破壊され、破滅したら、それは後世の人が愚かだったということになる。

powered by Quick Homepage Maker 4.91
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional