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バナナとの因果関係、人は何のためにいきるのか。

バナナとの因果関係、人は何のためにいきるのか。

 私は、バナナを食べる。ふと、このバナナ、どこで取れた物だろうと思った。どこの国のどの菜園で、いつ、だれが、どのように採取したバナナなのだろうと考えた。何本、何百本あるバナナの一つ、それを私が食べている。これはどのような因果関係があるのだろうと思った。当たり前のこと、何気ない事、しかし、いろんな条件の中、いろんな選択肢の中で、このバナナを私が食べている。もちろん、それを食べたからといって、どうなるものではない。しかし、何かの遭難にあい、たまたま、持っていたバナナ一本で命を繋げられることもある。そう考えると、すべてが、何かの糸で結ばれているような感じがする。今、私は、このバナナを食べている。食べたことで、このバナナの目的が確定される。このバナナは、私が食べるという行為をもって、その因果関係が収束されることになる。もちろん、バナナ自身は、その目的などわかるはずがない。

 先週、仕事の関係で、会津若松方面へいった。帰り、鶴ヶ城をみて、新潟経由で大阪に帰った。会津といえば、白虎隊である。その歴史が刻まれていた。彼らは、それからの日本がどう発展したかわからない。生きていれば、どこかで、明治政府か日本陸軍か海軍の中枢になって、活躍したかもしれない。結果からみたら、犬死かもしれないが、今なお、その魂が会津の地に根付いているのであれば、物理的には死んだかもしれないが、精神的には、生き続けているということになる。会津で生まれ、会津で育った人は、その歴史を捨てることはないはずである。それと同じことが、西南戦争時での鹿児島にもあるはずである。

 太平洋戦争時、多くの日本人が、命を失った。戦友の死をうけて、多くの復員兵は、命がけでこの国の復興へ尽くした。戦争の悲惨さを目の当たりにしたから、平和憲法を受け入れた。敵国、アメリカの銃弾で命を落とした戦友、家族、その思いもあるが、それでも、復興のために、アメリカと組んで、この国を立て直した。バブル崩壊前、アメリカのマンハッタンに、日本製のブランドが、立ち並んだ時、太平洋戦争で失った人は、決して、無駄死にではなかったと、復員して、日本経済をけん引した人は、そう思ったはずである。

 しかし、沖縄の人は、そうは思えない。今なお、戦争の傷跡が至る所にのこっており、その延長線上に、アメリカの基地がある。沖縄の人にとっては、今なお、屈辱の歴史だとおもっているはずである。終戦末期、沖縄が日本本土の楯となって、総攻撃をうけた。沖縄は侵略されたのである。そして、敗戦をうけて、家族を殺した、友人、知人を死に追いやったアメリカ人が支配する国で、アメリカ人に媚をうって、多くの沖縄の人は生きていたのである。沖縄にアメリカの基地があり続けるかぎり、沖縄の人の意識の中には、まだ、敗戦後という感覚が残っているはずである。時代は変わっても、人は変わっても、戦禍で命を失った沖縄の人の魂が生き続けている以上、その感覚は消えることはないはずである。

 人は、いつの世でも、自分中心にして物事を考える。権力者側は権力者側での視点から物事を見るし、虐げられた人は、虐げられた人の視点から物事をみる。どちらも、自分の都合や利害を最優先にする。当然に、権力者側での正義と虐げられた人が考える正義とは、感覚が違う、人間の視点にたてば、正義はいつの世でも相対的なもので、絶対的な真理や正義は、なかなか見えない。信仰心があっても、何が正義かなど、わからない。それはその教義が唱える正義であって、絶対的な正義かどうかはわからない。ただ、言えることは、長く継続している方が、それだけ、多くの人の共鳴を得ているということになる。何時の世でも邪教ははびこる。しかし、時がたてば、おかしなものは、必ず淘汰されていく。

 人は、生まれて、いつか死んでいく。10代で終わる人もいれば、100歳まで生きる人もいる。だんだんと、年をとっていくと、自律的に生きているというよりは、何か、大きな力をうけて、活かされているという感覚をもつようになる。その大きな力とは、永遠にわからないが、次元は違うが、私がバナナをたべるような関係が、私とこの世を支配するものにも適応されるような気がしている。この世とは、金魚鉢のようなもの、その鉢の中でいきているのが、われわれ人間、その金魚鉢を覗き込む人がいる。金魚鉢の中の因果は、金魚鉢の外にいる人の恣意できまる。金魚鉢の中にいる人は、永遠に、金魚鉢の外の因果を知る術がない。

 人間は、いつの世でも迷い、苦しみ、悩み、悲しむ。そして、だれでもが、永遠の命を欲する。しかし、だれでもが、時がきたら、あの世へと帰っていく。死んでしまったら、すべてがエンドなのである。だから、迷っても意味がないし、悩んだり、悲しんだり、苦しんでも意味がない。最終的にたどり着くところは同じである。人生は、一度切り、いろんな事を経験する方が、楽しいはずである。他人を気にして、やりたいことを止めることは意味がない。反社会的な事、みんなが嫌がることをすれば別だが、人は、どこかで自分が一番だとおもっている。だから、やっかみや嫌がらせなど当たり前、悪口や陰口など、当然に起こる事、ある意味、言われて、なんぼの世界である。それで、引きこもりなどしたら、人生、もったいない、悪口や陰口を言ったものの勝ちになる。堂々と己が信じた正義を貫いたらいいはずである。死ぬ日まで、全力でがんばったらいい。未来の人のためになる何かを、残してあげたらいい。人は、何のために生きるのか、たぶん、未来の人がよりよい生き方ができるようにするために、今を生きているように感じている。もちろん、すぐにはそんなことはできない。未来の人がよりよく生きられるようなものを作るため、それを習得するために、人生には習得期があるような気がする。だから、若い人は、まよわず、学び、いろんなものにチャレンジして、経験をつみ、未来の人のためになる何かを得るように頑張るべきである。だめだとおもった所が、その人のエンドである。

2018年7月28日 秋山なおの美粒ブログにUP

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