革新的な美粒の高圧乳化分散、グラフェン、カーボンナノチューブ、セルロースナノファイバー、挙動は同じです。

ただ、生きるためにがんばる。

ただ、生きるためにがんばる。

ただ、生きるためにがんばる。

 世の中にはシングルマザー、シングルファザーの人がいる。父親がいても、長期単身赴任で、父親不在の家もあるだろう。子供は寂しい思いをしているかもしれないし、シングルマザーのお母さんは、お父さん役もしなければならないし、シングルファザーは、お母さん役もしなければならない。離婚か死別かそれなりの事情はあるだろうが、それでも、頑張って生きている。

 裕福な家に生まれた子供もいるだろうし、貧困家庭に生まれた人もいるだろう。今は所得格差が教育格差、それが人生の格差にならないとも限らないが、それでも、なんとか、頑張って生きている。つい、75年ぐらい前は、赤紙ひとつで戦場へ駆り出された。軍隊の組織の命令に服従しなければならない。軍律をやぶれば、軍法会議である。国の掟と軍の掟は異なる。軍を支配する人の意向が、軍律を左右する。上官が理不尽なことをいっても、それが軍に関することなら、従わなければならない。逆らうことなどできない世界。明日、突撃と命令が下れば、犬死だとおもっても、突入しなければならない。それでも前進する。まともな世界からみれば、ふざけていると思う。死ぬために前進するのかと誰でも思う。しかし、実際の兵士は、だれも死ぬために前進したのではなく、生きるために前進したのである。人殺しや戦争など、狂気の世界、しかし、それが人間の世界なら、どうしようもない。もし、私が75年前に生きて、赤紙で招集され、戦地に派遣され、銃で敵をせん滅しろと命令をうけたら、銃の引き金を、ひくだろう。敵兵に家族がいて、一時、楽しい団欒を向かえていても、一瞬はためらうかもしれないが、それでも、機関銃を放つだろう。なぜなら、それが、狂った世界での掟だからである。もちろん、平和になったとき、それは、裁かれない。裁かれるのは負けた方の軍令を出した指揮官であり、それを実行した人は超法規的な観点からの違法性が消えるからである。

 もし、私が、原子爆弾を搭載したエノラ・ゲイB29に乗っていたら、そして、1945年8月6日、午前8時15分に、原爆の投下のボタンを押せと、命令されたとしても、一瞬の躊躇はあるかもしれないが、当たり前のように、ボタンを押して、任務を遂行したはずでる。もちろん、原爆の脅威もわかっている。広島には、非戦闘員の人々が、戦争中といえども、それなりの生活を送っている。これが爆発したら、どうなるか、爆裂直下にいるひとは、一瞬で消える。近くにいる人は、被爆する。距離が離れるにしたがって、生存はふえる。しかし、被爆がのこるかぎり、生きることの苦しみを味わうことになる。それをわかっていても、ボタンをおす。もちろん、だれもそれを責めることはできない。なぜ、瀕死の日本に、原爆を落とす必要があったのか、東京湾に落とせば、大本営は震えあがって、瞬間的に、ポツダム宣言を受諾したはずである。広島と長崎、落とせば、何がおきるかわかっていて落とした。原爆が人体にどう影響するか、そのデータが欲しかったのだろう。ある意味、人体実験場、だったのかもしれない。しかし、それが非人道的といっても、意味がない。なぜなら、すべて狂った世界での出来事。戦争をしかけたのは日本、もちろん、それを仕向けたのはアメリカ、太平洋戦争中、何百万の人が死んだ。当然に死にたくて死んだのではない。生きようとして次の行動を起こしたのである。もちろん、その行動は、兵士なら、命令である。次の行動を起こした結果、生と死が分かれたのである。たまたま、生だったひとが、戦後、日本に、家族のもとに戻れたのである。

 私は信仰をもっている人の生活をしっている。毎日、決められた時間に、神や仏と対座して、お祈りや経を営む。聖書や法華経のイメージを反芻する。宗派によっては、念仏や般若心経を読経する。それは、この世からはなれたあの世にある神や仏の世界、自分が愛した人々がそこで慈しむ世界へ、自分の思いを伝播していることになる。共鳴を期待している。そして、この世を守ってください、と願っている。ある意味、美しい行為である。その祈りや読経の中に、邪念はない。純粋にそうありたいと思う気持ちである。そこに、人為的な組織も人のエゴも思惑も介在できない。神や仏と祈る行為者との一対一の純粋な魂の交流しか存在しえない。なぜ、祈るのか、答えはひとつしかない。生きるためだからである。しかし、そこに、人のエゴや不純物、暗黒物質的な欲望があったらどうなるか、神や仏との交流ではなく、実際には、悪霊と対話していることになる。悪霊に魂が乗っ取られている。

 集合という考えがある。全体と一部分という関係をあらわす。⊂、右側が全体、左が部分である。そうなると、この世⊂あの世ということになる。人⊂神、自利⊂利他ということになる。あの世からこの世はみえるが、この世からあの世は見えないということになる。神からは人はみえるが、人からは神は見えないということである。自分だけの利を追っても全体の利にはならないが、全体の利を追うことは、自分の利にもなるということである。だから、実際には、何もわからないのである。我々は全体がわからないのである。わからないながら、生きているのである。死ぬために生きているのではないし、何かの目的のために生きているのではない。ただ、生きるために頑張っているのである。

 なぜ、シングルマザー、シングルファザーのお母さんもお父さんも含めて、みんながんばるのか、それは、生きるために頑張っているのである。闘病中の人もいる。抗ガン治療を受けている人もいる。腎機能が低下して、透析をしている人もいる。はっきりいって、つらいことである。そんなつらいことに耐えて、頑張っている理由は、たったひとつしかない。生きるためだからである。それでも、いつか人は死を迎える。しかたがない。生まれた以上、死ぬのが定めである。その時がくるまで、がんばるしかない。そこに理屈などない。この世⊂あの世、だからであり、この宇宙は、ひとつのビックバーンでうまれた。どこからか発生したかなどわからない。その因果が明確でない以上、全体の因果がわからない以上、最終的な理屈など存在しない。いま、この世にある理屈は、永遠なる仮説でしかありえない。物理も化学も数学も生物もあらゆる理屈や定理は、たまたま、実験結果や現象と符合しているだけであって、それが、絶対なのかはわからないのである。分かりえないのである。

 だから、すべて、ただ、生きるためにがんばるとしかいいようがない。だから、人生の途上で迷いながら苦しんでいる若者にいえるのは、「迷いながら苦しむのは、一つの経験、しかし、それに縛られる必要もない、倒れたら起き上がり、倒されたら這い上がり、そして、前進するしかない。それが生きること。だから、ただ、生きるために、がんばりなさい」。

 いつか、人はその役目を終えて、死ぬ。蝉とおなじである。蝉は夏のある日、夜明け前に、土から樹木へ這い上がり、脱皮して、蝉となる。そして、体を震わせ、なく。蝉しぐれである。一生懸命になく。それと同じである。ただ、一生懸命、頑張って生きる。それだけである。

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